先日の読書会で、読むとはどういうことかについて教えていただきました。恥ずかしながら、ブッククラブ関連の本を読んだことがあるにも関わらず、そして読書を中心に(教育について)学んでにるにも関わらず、「読む」ということが全く意識できていなかったことに気づきました。
読むとはどういうことか
- 考えこと、意味をつくり出すこと。
- 読んでいる時は、思考が頭の中をかけめぐっている。
- 見方/視点をつくり出している。
- 場合によっては、生き方まで変わるときも…。
- 読み手は、部分的には書き手でもある。
「優れた読み手が使っている方法」とは何か
- 自分や、他の読み物や、世界とのつながりを見出す
- イメージを描き出す
- 質問をする
- 著者が書いていないことを考える(つまり「行間」を読む)
- 何が重要かを見極め、他の人に説明できる
- さまざまな情報を整理・統合して、自分なりの解釈や活かし方を考える
- 自分の理解をチェックし、修正する
さらに、人は自分が読めるもの/読みたいものしか、その時点では読めない、ということでは?という視点もいただきました。
哲学では、欲望相関性の原理という考え方があります。これは、物事は自分の欲望に相関的に捉えられるというものです。苫野一徳がよく使う例を用いると、ペットボトルに入った水について、喉が渇いていれば飲み水として立ち現れるし、火事が起こりそうなら火消し水になるし、もしかしたら攻撃するための武器になるかもしれない…その時にもっている欲望によって規定されるのです。
選書するときも、意識しないと自分の考えに近いものを手に取ってしまうのは、「やっぱりぼくのやっていることって間違ってないんだ。」と思いたい欲望があるからだと思います。
だからこそ、関係性のある人たち(関係性が希薄だと共感できず、考えることができない)と読み合うことは、自分の限界を超えて、自分が読めることを深めてくれる、とも教えていただきました。本当にそうだなと思います。
読書会ではその後、読むとはどういうことか、エレベーターピッチを用いて15秒ほどで考えをまとめてみました。ぼくが考えたエレベーターピッチは、「情報を受けるという一方的な行為ではなく、そこから考えを生んだり思考を深めたりして、頭の中をGoogleマップ化していく、点と点が結ばれていって地図をつくるようなもの。」
他の方からは、「クリエイティブな発展」や「能動的な行為」「意味の網目」「仲間との関係性が大事」などといった言葉が出てきました。
そうする中で、読むということと、学ぶということは同じであるように感じてきました。
読むこともまた学ぶことですので、当然のことと言えばそうなのですが、
学ぶことも、情報を受けるという一方的な行為ではないはず…。能動的な行為であるはずだし、仲間との関係性も大事です。そして考えや意味、見方や視点をつくり出しているはずなのです。何が重要かを見極めることができるようになり、自分なりの解釈や活かし方を考え、自分の学びをチェックしよりよくしていく。そうして世界は広がるし、まさしく生き方だって変わることがあるのです!
読むペースが人それぞれ違うように、学ぶペースだって人によって違う。
読みたいものが人それぞれ違うように、学びたいものだった人によって違う。
1人では読むことへの限界があるように、学ぶことも他者の力が必要不可欠。
だから、それぞれの興味関心に沿って、自分に合ったペースで、自分に合った学び方で、必要に応じて必要な人と必要なコミュニケーションをとりながら学んでいく。得意不得意や考えていることが違うから学びは深まり、さらに学びたくなる。学び続ける。壁にぶつかっても、仲間と解決して乗り越えることができることを知っている。学ぶことを通して出会うもの、関わる人へのリスペクトが生まれる。自分の成長が実感できる。自分ってオッケーなんだと思える。今度は誰かの役に立てることもあるかもしれないし、そうやって力を貸借りし合って共に学びを深め合っていく…。
読むとはどういうことかについて考えることができたおかげで学ぶとはどういうことかについても考えが回る。それがものすごく楽しい!
元気が出るってこういうことだなと思います。
学校は学ぶところ。学ぶこと自体が楽しければ、学校は元気になるはず!
明日は研究授業で算数の個別化・協同化の実践を見ていただく日。事後研究会ではどんな話が先生方とできるだろう?ワクワク!